
チーム「AFTERSHOCK」。
1998年国際カイトフェスティバル・フランス大会での優勝チームだ。
”世界チャンピオン”の称号を手に入れたのは、この日本人のチームだった。

リーダーは江見健二郎。
スポーツカイトと出会って8年目で快挙を達成。
多くの人たちとの出会いがあってこその世界一だった。
江見が初めてスポーツカイトを知ったのは91年。
当時、気球を媒体にした広告代理店に勤めていた。
飲料メーカーをクライアントにボトル形などの気球を各地で飛ばした。
ただ、気球は風があると倒れてしまう。
そこで目を付けたのがカイトだった。
「気球とカイトを連動させたイベントができないか」
社長の命を受け、江見はカイトを買いに向かった。
スポーツカイトは9千円くらいで手に入った。
しかし、これを揚げようとしたところまったく揚がらない。
どうして揚がらないのかも理由もわからない。
困惑していたところ、たまたま手にした雑誌に目がとまった。
それは、スポーツカイト協会ができたことを知らせるものだった。
江見は迷わず協会の会長である橋本達を訪ねた。

「お前、凧を出してみろ」
江見が手渡した凧を橋本がちょちょっといじると、それまで全く揚がらなかった凧が嘘のように大空を舞った。
”ゴッドハンドみたいな親父だ…”
感銘を受けた江見は、毎週のように橋本を訪ねた。
橋本はもともと日本伝統の”せみ凧”をつくる凧職人。
アメリカでは、彼の手がけた凧が1000ドル、2000ドルの値段で売れ、「日本の凧の会」の世話人も務める、重鎮だ。
凧のことならなんでも知っていた。
橋本の手ほどきを受けた江見は、スポーツカイトの魅力にどっぷりはまる。
スポーツカイトのサプライヤーをしていたメーカーに転職し、「バンザイ」というプロモーションチームで、各地を巡りスポーツカイトの普及に努めた。

そして、95年。
プロモーションチーム「バンザイ」の解散を受け、世界チャンピオンを目指すべくチーム「AFTERSHOCK」が結成する。
練習は、毎週、九十九里浜に集合して行われた。
当時の江見の住まいは横浜。
仙台、宇都宮から通ってくるメンバーもいた。
本来であれば練習に集まるのさえ難しい条件。
しかし、それを奇跡的な出会いが救った。
九十九里浜で最初の練習を始めたとき、近くで見ていた男性が声をかけてきた。
「もしかして江見さんなの?」
すでに日本のスポーツカイト界で顔が知られていた江見。
声をかけてきた男性は、地元のスポーツカイト愛好家だった。
「毎週来るのは大変だから。うちに泊まりなさいよ」
6人チーム+その家族。総勢10人近くの定宿が幸運にも見つかった。
それからは毎週が合宿のようなものだった。
日中は浜辺で実際にスポーツカイトを揚げて演技の練習。
夜はレーザーポインターでイメージトレーニングを行った。

ところで「AFTERSHOCK」というチーム名には由来がある。
少し変わったこの名前は、チームが結成された前年の世界チャンピオンに敬意を表したものだ。
94年の優勝チームはチーム「TSUNAMI(津波)」。
率いていたのはランディ・ジョー(現・X-Kites社代表)だった。
ランディは江見のスポンサーにして良き理解者。
スポーツカイトの師匠として、惜しみないサポートやアドバイスを送ってくれた。
そこで、彼のチームを、いつか越えることを夢見て、津波のあとにくる”余波”から名前を連想。
英語名に直して、チーム「AFTERSHOCK」と命名したのだった。
江見は、こうして多くの人と出会い支えられ世界チャンピオンの称号を獲得した。
チャンピオンチームである「AFTERSHOCK」は解散してしまったが、スポーツカイトの普及こそが、この恩に報いる最善の方法だと、いま各地を奔走している。
